<T 鞍馬天狗>
<N 213>
<K 季三月>
<A シテ>山伏
<A ワキ>鞍馬東谷の僧
<A 狂言>能力
<A 子方>牛若丸
<A 後シテ>大天狗
<S 名著>
<P534b>
シテ詞「かやうに候ふ者は。鞍馬の奥僧正
が谷に住居する客僧にて候。さても当山
において。花見の由うけたまはり及び候
ふ間。立ち越えよそながら梢をもながめ
<P534c>
ばやと存じ候。
狂言「これは鞍馬の御寺に仕へ申す者に
て候。さても当山において毎年花見の御
座候。殊に当年は一段と見事にて候。さ
<P535a>
る間東谷へ唯今文を持ちて参り候。い
かに案内申し候。西谷より御使にまゐり
て候。これに文の御座候御らん候へ。
ワキ詞「何々西谷の花。今を盛と見えて候ふ
に。など御音信にもあづからざる。一筆
啓上せしめ候ふ古歌にいはく。けふ見ず
はくやしからまし花ざかり。咲きものこ
らず散りもはじめず。げにおもしろき歌
の心。たとひ音づれなくとても。木蔭に
てこそ待つべきに。地歌「花咲かば。告げ
んといひし山里の。/\。使は来たり馬
に鞍。鞍馬の山の雲珠桜。たをり枝折を
しるべにて。奥も迷はじ咲きつゞく。木
蔭に並み居ていざ/\花をながめん。
狂言「いかに申し候。あれは客僧の渡り
候。これは近頃狼藉なる者にて候ふ。追つ
立てうずるにて候。ワキ詞「しばらく。さす
がに此御座敷と申すに。源平両家の童形
達各御座候ふに。かやうの外人は然るべ
<P535b>
からず候。しかれども又かやうに申せば
人を選び申すに似て候ふ間。花をば明日
こそ御らん候ふべけれ。まづ/\此処を
ば御立ちあらうずるにて候。狂言「いやい
やそれは御諚に
て候へども。あ
の客僧を追ひ立
てうずるにて
候。ワキ「いやた
だ御立あらうず
るにて候。
シテ「遥に人家を
見て花あれば
即ち入る。論ぜ
ず貴賎と親疎と
を弁へぬをこ
そ。春の習と聞くものを。浮世に遠き鞍
馬寺。本尊は大悲多聞天。慈悲に洩れた
る人々かな。子方「げにや花の下の半日の
<P535c>
客。月の前の一夜の友。それさへ好みは
あるものを。あら痛はしや近うよつて花
御らん候へ。シテ詞「思ひよらずや松虫の。
音にだに立てぬ深山桜を。御訪の有難
さよ此山に。子方「ありとも誰かしら雲の。
立ち交はらねば知る人なし。シテ詞「誰をか
も知る人にせん高砂の。子方「松も昔の。
<P536a>
シテ「友烏の。地「御物笑の種蒔くや。言の
葉しげき恋草の。老をな隔てそ垣穂の梅
さてこそ花の情なれ。花に三春の約あり。
人に一夜を馴れそめて。後いかならんう
ちつけに心空に楢柴の。馴れは増らで恋
のまさらん悔しさよ。
シテ詞「いかに申し候。唯今の児達は皆々
御帰り候ふに。何とて御一人是には御座
候ふぞ。子方詞「さん候唯今の児達は平家
の一門。中にも安芸の守清盛が子供たる
により。一寺の賞翫他山のおぼえ時の花
たり。みづからも同山には候へども。よ
ろづ面目もなき事どもにて。月にも花に
も捨てられて候。シテ「あら痛はしや候。
さすがに和上臈は。常磐腹には三男。毘
沙門の沙の字をかたどり。御名をも沙那
王殿と付け申す。あら痛はしや御身を知
れば。所も鞍馬の木蔭の月。地「見る人も
なき山里の桜花。よその散りなん後に
<P536b>
こそ。咲かばさくべきにあら痛はしの御
事や。
地歌「松嵐花の跡訪ひて。/\。雪と降り
雨となる。哀猿雲に叫んでは。腸を断つ
とかや。心凄のけしきや。夕を残す花の
あたり。鐘は聞えて夜ぞ遅き。奥は鞍馬
の山道の。花ぞしるべなる此方へ入らせ
給へや。さても此程御供して見せ申しつ
る名所の。ある時は。愛宕高雄の初桜。
比良や横川の遅桜。吉野初瀬の名所を。
見のこす方もあらばこそ。
ロンギ子方「さるにても。如何なる人にましま
せば。我を慰め給ふらん。御名を名のり
おはしませ。シテ「今は何をか包むべき。
我此山に年経たる。大天狗は我なり。地「君
兵法の。大事を伝へて平家を亡ぼし給ふ
べきなり。さも思しめされば。明日参会
申すべし。さらばといひて客僧は。大僧
正が谷を分けて雲を踏んで飛んでゆく立
<P536c>
つ雲を踏んで飛んでゆく。来序中入間「。
後子方一声「さても沙那王がいでたちには。肌
には薄花桜の単に。顕紋紗の直垂の。露
を結んで肩にかけ。白糸の腹巻白柄の長
刀。地「たとへば天魔鬼神なりとも。さこ
そ嵐の山桜。はなやかなりける出立か
な。後シテ大〓{大漢和:22529。べし}「そも/\これは。鞍馬の奥僧正
が谷に。年経て住める。大天狗なり。地「ま
づ御供の天狗は。誰々ぞ筑紫には。シテ「彦
山の豊前坊。地「四州には。シテ「白峯の。
相模坊。大山の伯耆坊。地「飯綱の三郎富
士太郎。大峯の前鬼が一党葛城高間。よ
そまでもあるまじ。邊土においては。
シテ「比良。地「横川。シテ「如意が嶽。地「我
慢高雄の峯に住んで。人の為には愛宕山。
霞とたなびき雲となつて。月は鞍馬
の僧正が。地「谷に満ち/\峯をうごかし。
嵐こがらし滝の音。天狗だふしはおびた
たしや。
<P537a>
シテ詞「いかに沙那王殿。只今小天狗をま
ゐらせて候ふに。稽古の際をばなんぼう
御見せ候ふぞ。子方詞「さん候只今小天狗共
来り候ふ程に。薄手をも切りつけ。稽古の
際を見せ申したくは候ひつれども。師匠
にや叱られ申さんと思ひ止まりて候。
シテ「あらいとほしの人や。さやうに師匠
を大事に思しめすに就いて。さる物語の
候語つて聞かせ申し候ふべし。語「さても
漢の高祖の臣下張良といふ者。黄石公に
この一大事を相伝す。ある時馬上にて行
きあひたりしに。何とかしたりけん左の
履を落し。いかに張良あの履とつてはか
せよといふ。安からずは思ひしかども履
を取つてはかす。又其後以前の如く馬上
にて行きあひたりしに。今度は左右の履
を落し。やあ如何に張良あの履取つては
かせよといふ。なほ安からず思ひしかど
も。よし/\この一大事を相伝する上は
<P537b>
と思ひ。落ちたる履をおつとつて。地「張
良履を捧げつゝ。/\。馬の上なる石公
に。はかせけるにぞ心とけ兵法の奥儀を
伝へける。シテ「そのごとくに和上臈も。
地「そのごとくに和上臈も。さも花やかな
る御有様にて姿も心も荒天狗を。師匠や
坊主と御賞翫は。いかにも大事を残さず
伝へて平家を討たんと思し召すかややさ
しの志やな。
地歌「抑武略の誉の道。舞働「。抑武略の誉
の道。源平藤橘四家にも取りわきかの家
<P537c>
の水上は。清和天皇の後胤として。あら
あら時節を考へ来るに。驕れる平家を西
海に追つ下し。煙波滄波の浮雲に飛行の
自在を受けて。敵を平らげ。会稽を雪が
ん。御身と守るべし。これまでなりや。
御暇申して立ち帰れば。牛若袂に。すが
り給へば実に名残あり。西海四海の合戦
といふとも。影身を離れず弓矢の力を添
へ守るべし。頼めやたのめと夕かげくら
き。頼めやたのめと。夕かげくら馬の。
梢に翔つて。失せにけり。