<T 弱法師>
<N 152>
<K 季二月>
<A シテ>俊徳丸
<A ワキ>高安通俊
<S 名著>
<P 370b>
ワキ詞「かやうに候ふ者は。河内の国高安の
里に。左衛門の尉通俊と申す者にて候。
さても某子を一人持ちて候ふを。さる人
の讒言により暮に追ひ失ひて候。余りに
不便に候ふ程に。二世安楽のため天王寺
にて。一七日施行を引き候。今日も施行
を引かばやと存じ候。狂言シカ%\。
<P 370c>
シテ一セイ「出入の。月を見ざれば明暮の。夜の
境をえぞ知らぬ。難波の海の底ひなく。
深きおもひを。人や知る。サシ一セイ「それ鴛鴦
の衾の下には。立ち去る思を悲み。比
目の枕の上には波を隔つる愁あり。いは
んや心あり顔なる人間有為の身となり
て。憂き年月の流れては。妹背の山の中
<P 371a>
に落つる。吉野の川のよしや世と思ひも
はてぬ心かな。あさましや前世に誰をか
厭ひけん。今又人の讒言により。不孝の
罪に沈む故。思の涙かき曇り。盲目とさ
へなり果てゝ。生をもかへぬ此世より。
中有の道に迷ふなり。下歌「本よりも心の
闇は有りぬべし。上歌「伝へ聞く。彼一行
の果羅の旅。/\。闇穴道の巷にも。九
曜の曼陀羅の光明。赫奕として行末を
照らし給ひけるとかや。今も末世と言ひ
ながら。さすが名に負ふ此寺の。仏法最
初の天王寺の石の鳥居こゝなれや。立ち
寄りて拝まんいざ立ち寄りて拝まん。
ワキカヽル「頃はきさらぎ時正の日。誠に時も
長閑なる。日を得てあまねき貴賎の場に。
施行をなして勧めけり。シテ詞「げにありが
たき御利益。法界無辺の御慈悲ぞと。踵
をついで群集する。ワキ「や。これに出で
たる乞丐人は。いかさま例の弱法師よな。
<P 371b>
シテ「又われらに名を付けて。皆弱法師と
仰あるぞや。げにも此身は盲目の。足
弱車の片輪ながら。よろめきありけば弱
法師と。名づけ給ふはことわりなり。
ワキ詞「げに言ひ捨つる言の葉までも。心あ
りげに聞ゆるぞや。まづ/\施行を受け
給へ。シテ「あらありがたや候。や。花の
香の聞え候。いかさま木の花散り方にな
り候ふな。ワキ「おうこれなる籬の梅の花
が。弱法師が袖に散りかゝるぞとよ。
シテ「憂たてやな難波津の春ならば。唯木
の花とこそ仰あるべきに。今は春辺も
なかばぞかし。梅花を折つて頭に挿しは
さまざれども。二月の雪は衣に落つ。あ
ら面白の花の匂やな。ワキ「げにこの花
を袖に受くれば。花もさながら施行ぞと
よ。シテ詞「なか/\の言。草木国土。悉皆御
法も施行なれば。ワキ「皆成仏の大慈悲
に。シテ「漏れじと施行に連なりて。ワキ「手
<P 371c>
を合せて。シテ「袖を広げて。上歌地「花をさ
へ。受くる施行のいろ/\に。/\。匂
ひ来にけり梅衣の。春なれや。何はの事
か法ならぬ。遊び戯れ舞ひ謡ふ。誓ひの
網には漏るまじき。難波の海ぞ頼もしき。
げにや盲亀のわれらまで。見る心地する
梅が枝の。花の春の長閑けさは。難波の
法によも漏れじ/\。
クリ「それ仏日西天の雲に隠れ。慈尊の出
世遥に。三会の暁未だなり。シテ「然る
に此中間に於て。なにと心を延ばへま
し。地「こゝによつて上宮太子。国家を改
め万民を教へ。仏法流布の世となして。
普く恵を弘め給ふ。シテ「然れば当寺を御
建立あつて。地「始めて僧尼の姿を顕し。
四天王寺と名づけ給ふ。クセ「金堂の御本
尊は。如意輪の仏像。救世観音とも申す
とか。太子の御前生。震旦国の思禅師に
て。渡らせ給ふゆゑなり。出離の仏像に
<P 372a>
応じつゝ。いま日域に至るまで。仏法最
初の御本尊と。あらはれ給ふ御威光の。
真なるかなや。末世相応の御誓。然るに
当寺の仏閣の。御作の品々も。赤栴檀の
霊木にて。塔婆の金宝にいたるまで。閻
浮檀金なるとかや。シテ「万代に。澄める
亀井の水までも。地「水上清き西天の。無
熱池の。池水を受けつぎて。流久しき世
世までも五濁の人間を導きて。済度の舟
をも寄するなる。難波の寺の鐘の声。異
浦々に響き来て。普き誓満潮の。おし照
る海山も。皆成仏の姿なり。
ワキ詞「あら不思議や。これなる者をよく
よく見候へば。某が追ひ失ひし子にて候
ふはいかに。思のあまりに盲目となりて
候。あら不便と衰へて候ふものかな。人
目もさすがに候へば。夜に入りて某と名
のり。高安へ連れて帰らばやと存じ候。や
あ如何に日想観を拝み候へ。シテ詞「げにげ
<P 372b>
に日想観の時節なるべし。盲目なればそ
なたとばかり。心あてなる日に向ひて。
東門を拝み南無阿弥陀仏。ワキ詞「何東門と
はいはれなや。こゝは西門石の鳥居よ。
シテ「あら愚や天王寺の。西門を出でて極
楽の。東門に向ふは僻事か。ワキ「げにげ
にさぞと難波の寺の。西門を出づる石の
鳥居。シテ「阿字門に入つて。ワキ「阿字門
を出づる。シテ「弥陀の御国も。ワキ「極楽
の。シテ「東門に。向ふ難波の西の海。
地「入日の影も舞ふとかや。
シテ詞「あら面白やわれ盲目とならざりし
前は。弱法師が常に見馴れし境界なれば。
何疑も難波江に。江月照らし松風吹き。
永夜の清宵なんのなすところぞや。ワカ「住
吉の。松の隙よりながむれば。地「月落ち
かゝる淡路島山と。シテ「眺めしは月影の。
地「詠めしは月影の。今は入日や落ちかゝ
るらん。日想観なれば曇も波の。淡路絵
<P 372c>
島。須磨明石。紀の海までも。見えた
り見えたり。満目青山は。心にあり。
シテ「あう。見るぞとよ/\。
地「さて難波の浦の致景の数々。シテ「南
はさこそと夕波の。住吉の松影。地「東の
方は時を得て。シテ「春の緑の草香山。
地「北は何処。シテ「難波なる。地「長柄の橋
の徒らにかなた。こなたとありく程に。盲
目の悲しさは。貴賎の人に行き合ひの。
転び漂よひ難波江の。足もとはよろ/\
と。実にも真の弱法師とて。人は笑ひ給
ふぞや。思へば恥かしやな今は狂ひ候は
じ今よりは更に狂はじ。
ロンギ上「今ははや。夜も更け人も静まりぬ。
いかなる人の果やらん。その名を名のり
給へや。シテ「思ひよらずや誰なれば。我が
いにしへを問ひ給ふ。高安の里なりし。俊
徳丸が果なり。地「さては嬉しやわれこそ
は。父高安の通俊よ。シテ「そも通俊は我
<P 373a>
が父の。その御声と聞くよりも。地「胸う
ち騒ぎあきれつゝ。シテ「こは夢かとて。
地「俊徳は。親ながら恥かしとてあらぬ方
へ逃げ行けば。父は追ひ付き手を取りて。
<P 373b>
何をかつゝむ難波寺の鐘の声も夜まぎれ
に。明けぬ先にと誘ひて高安の里に帰り
けり/\。