<東北>
<N 62>
<K 季二月>
<A ワキ>旅僧
<A ワキツレ二人>従者
<A シテ>梅の精
<S 名著>

<P 148a>
ワキ、ワキツレ二人次第「年立ちかへる春なれや。/\
花の都に急がん。ワキ詞「これは東国方より
出でたる僧にて候。我いまだ都を見ず候
ふほどに。この春思ひ立ち都に上り候。
道行三人「春立や。霞の関を今朝越えて。/\。
果はありけり武蔵野を分け暮らしつゝ跡
遠き。山また山の雲を経て。都の空も近
づくや。旅までのどけかるらん/\。
ワキ詞「急ぎ候ふ程に。これははや都に着

<P 148b>
きて候。又これなる梅を見候へば。今を
盛と見えて候。いかさま名のなき事は候
ふまじ。此辺の人に尋ねばやと思ひ候。
狂言シカ%\「。ワキ詞「扨は此梅は和泉式部と申
し候ふぞや。暫く眺めばやと思ひ候。
シテ詞呼掛「なう/\あれなる御僧。其梅を人
に御尋ね候へば。何と教へ参らせて候ふ
ぞ。ワキ詞「さん候人に尋ねて候へば。和
泉式部とこそ教へ候ひつれ。シテ「いやさ

<P 148c>
やうには云ふべからず。梅の名は好文木。
又は鶯宿梅などとこそ申すべけれ。知ら
ぬ人の申せばとて用ひ給ふべからず。此
寺いまだ上東門院の御時。和泉式部此梅
を植ゑおき。軒端の梅と名づけつゝ。目
がれせず眺め給ひしとなり。かほどに妙
なる花の縁に。御経をも読誦し給はゞ。
逆縁の御利益ともなるべきなり。詞「これ
こそ和泉式部の植ゑ給ひし軒端の梅にて
候へ。ワキ「さては和泉式部の植ゑ給ひし
軒端の梅にて候ひけるぞや。又あの方丈
は。和泉式部の御休所にて候ふか。シテ「な
か/\の事和泉式部の臥処なりしを。造
も替へずそのまゝにて。今に絶えせぬ眺
ぞかし。ワキ「ふしぎやさても古の。名
を残しおく形見とて。シテ「花も主を慕ふ
かと。年々色香もいやましに。ワキ「さも
みやびたる御気色。シテ「なほもむかしを。
ワキ「思ふかと。地歌「年月をふるき軒端の

<P 149a>
梅の花。古き軒端の梅の花。主を知れば
久方の。天ぎる雪のなべて世に。聞えた
る名残かや。和泉式部の花心。
ロンギ地「げにや古を。聞くにつけても思
出の。春や昔の春ならぬ我が身ひとりぞ
心なき。シテ「ひとりとも。いさしら雪の
古事を。誰に問はまし道芝の。露の世にな
けれども。此花に住むものを。地「そも此
花に住むぞとは。とぶさに散るか花鳥の。
シテ「同じ道にと帰るさの。地「先だつあ
とか。シテ「花の蔭に。地「やすらふと見え
しまゝに。我こそ花の主よとゆふぐれな
ゐの花の蔭に。木がくれて見えざりき木
がくれて見えずなりにけり。中入間「。
ワキ、ワキツレ二人歌待謡「終夜。軒端の梅の蔭に居て。
/\。花も妙なる法の道。迷はぬ月の夜と
共に。此御経を読誦する/\。後シテ一声「あ
らありがたの御経やな。あらありがた
の御経やな。たゞいま読誦し給ふは譬

<P 149b>
喩品よなう。詞「思ひ出でたり閻浮のあり
さま。此寺いまだ上東門院の御時。御堂
の関白この門前を通り給ひしが。御車の
内にて法華経の譬喩品を高らかに読み給
ひしを。式部この門の内
にて聞き。門の外法の車
の音きけば。我も火宅を。
出でにけるかなと。かや
うによみし事。今のをり
から思ひ出でられて候ふ
ぞや。ワキ詞「げに/\此歌
は。和泉式部の詠歌ぞと。
田舎まで聞き及びしなり。
詞「さては詠歌の心の如く。
火宅をばはや出で給へり
や。シテ詞「なか/\の事火宅は出でぬさ
りながら。詠みおく歌舞の菩薩と成りて。
ワキ「なほこの寺に澄む月の。シテ「出づる
は火宅。ワキ「今ぞ。シテ「すでに。地歌「三

<P 149c>
界無安の内を去りて三つの。車にのりの
道。すはや火宅の門を今ぞ。和泉式部は
成等正覚を得るぞ有難き。
地クリ「それ和歌といつぱ。法身説法の妙
文たり。たま/\後世に知らるゝ者はた
だ。和歌の友なりと。貫之もこれを書き
たるなり。シテサシ「かるが故に天地を動かし
鬼神を感ぜしむる事業。地「神明仏陀の冥

<P 150a>
感に至る。殊に時ある花の都。雲居の春
の空までものどけき心を種として。天道
にかなふ。詠吟たり。クセ「所は九重の。
東北の霊地にて。王城の鬼門を守りつゝ。
悪魔を払ふ雲水の。水上は山陰の賀茂川
やすゑしら河の波風も。いさぎよき響は
常楽の縁をなすとかや。庭には。池水を
たゝへつゝ。鳥は宿す池中の樹僧は敲く
月下の門。出で入る人跡かず/\の。袖
をつらね裳裾を染めて。色めく有様はげ
に/\花の都なり。シテ「見仏聞法のかず
/\。地「順逆の縁はいやましに。日夜
朝暮に怠らず九夏三伏の夏たけて秋来に
けりと驚かす。澗底の松の風一声の秋を
催して。上求菩提の機を見せ池水に映る
月影は。下化衆生の相を得たり。東北陰
陽の時節もげにと知られたり。春の夜の。
序ノ舞「。シテワカ「春の夜の。闇はあやなし梅の
花。地「色こそ見えね。香やは隠るゝ香や

<P 150b>
は隠るゝ。/\。シテ「げにや色に染み。
香にめでし昔を。地「よしなや今更に。思
ひ出づれば我ながらなつかしく。恋しき
涙を遠近人に。洩らさんも恥かし。いと
ま申さん。シテ「これまでぞ花は根に。
地「今はこれまでぞ花は根に。鳥は旧巣

<P 150c>
に帰るぞとて。方丈のともし火を。火宅
とや。なほ人は見ん。こゝこそ花の台に
和泉式部が臥所よとて。方丈の室に入る
と見えし夢はさめにけり見し夢はさめて
失せにけり。