<T 当麻>
<N 257>
<K 季二月>
<A ワキ>念仏行者
<A ワキツレ二人>従僧
<A シテ>老尼
<A ツレ>女
<A 後シテ>中将姫の精魂
<S 名著>
<P 611b>
ワキ、ワキツレ二人次第「教うれしき法の門。/\。ひら
くる道に出でうよ。ワキ詞「これは念仏の行
者にて候。我此度三熊野に参り。下向道
に赴きて候。又これより大和路にかゝり。
当麻の御寺に参らばやと思ひ候。道行三人「程
もなく。帰り紀の路の関越えて。/\。
こや三熊野の岩田川。波も散るなり朝日。
<P 611c>
影夜昼わかぬ心地して。雲も其方に遠か
りし。二上山の麓なる。当麻の寺に着き
にけり/\。
シテサシ一声「一念弥陀仏即滅無量罪とも説か
れたり。ツレ「八万諸聖教皆是阿弥陀とも
ありげに候。シテ「釈迦は遣り。ツレ「弥陀は
導く一筋に。シテツレ二人「心ゆるすな南無阿弥
<P 612a>
陀仏。シテ一セイ「唱ふれば、仏も我もなかりけ
り。ツレ「南無阿弥陀仏の。声ばかり。
シテ「すゞしき。道は。シテツレ二人「たのもしや。
シテツレ二人次第「濁にしまぬ蓮の糸。/\の。五色
にいかで染みぬらん。
シテサシ「ありがたや諸仏の誓様々なれども。
わきて超世の悲願とて。迷の中にも殊に
なほ。二人「五つの雲は晴れやらぬ。雨夜
の月の影をだに。知らぬ心の行方をや西
へとばかり頼むらん。実にや頼めば。近
き道を。何遥々と思ふらん。下歌「すゑの
世に迷ふ我等が為なれや。上歌「説き遺す。
御法はこれぞ一声の。/\。弥陀の教を
頼まずは。末の法。万年々経るまでに余
経の法はよもあらじ。たま/\此生に浮
まずは。又いつの世を松の戸の。明くれ
ば出でて暮るゝまで法の場に交るなり御
法の。場に交るなり。
ワキ詞「いかにこれなる方々に尋ね申すべ
<P 612b>
き事の候。シテ詞「何事にて候ふぞ。ワキ「こ
れは当麻の御寺にて候ふか。シテ「さん候
当麻の御寺とも申し。又当麻寺とも申し
候。ツレ「又是なる池は蓮の糸を。すゝぎ
て清めし其故に。染殿の井とも申すとか
や。シテ「あれは当麻寺。ツレ「これは染寺。
シテ「又此池は染殿の。シテツレ二人「色々様々所
所の。法の見仏聞法ありとも。それをも
いさやしら糸の。唯一筋ぞ一心不乱に南
無阿弥陀仏。
ワキ「実に有難き人の言葉。即ちこれこそ
弥陀一教なれ。詞「さて又これなる花桜。
常の色にはかはりつゝ。これも故ある宝
樹と見えたり。ツレ「実によく御覧じ分け
られたり。あれこそ蓮の糸を染めて。
シテ詞「掛けて乾されし桜木の。花も心のあ
る故に。蓮の色に咲くとも云へり。ワキ「な
か/\なるべし本よりも。草木国土成仏
の。色香に染める花心の。シテ「法の潤
<P 612c>
種添へて。ワキ「濁にしまね蓮の糸を。
シテ「すゝぎて清めし人の心の。ワキ「迷を
乾すは。シテ「緋桜の。地歌「色はえて。掛
けし蓮の糸桜。/\。花の錦の経緯に。
雲の絶間に晴れ曇る雪も緑も紅も。唯
一声の誘はんや西吹く秋の。風ならん西
吹く風の秋ならん。
ワキ詞「なほ/\当麻の曼陀羅の謂委しく
御物語り候へ。地クリ「そも/\此当麻の曼
陀羅と申すは。人皇四十七代の帝。廃帝
天皇の御宇かとよ。横佩の右大臣豊成と
申しゝ人。シテサシ「その御息女中将姫。此山
にこもり給ひつゝ。地「称讃浄土経。毎
日読誦し給ひしが。心中に誓ひ給ふやう。
願はくは生身の弥陀来迎あつて。我に拝
まれおはしませと。一心不乱に観念し給
ふ。シテ「然らずは畢命を期として。地「此
草庵を出でじと誓つて。一向に念仏三昧
の定に入り給ふ。
<P 613a>
クセ「所は山陰の。松吹く風も涼しくて。
さながら夏を忘れ水の。音も絶々に。心
耳を澄ます夜もすがら。称名。観念の床
の上。座禅円月の窓の内。寥々とある折
節に。一人の老尼の。忽然と来りたゝず
めり。これは如何なる人やらんと。尋ね
させ給ひしに。老尼答へて宣はく。誰と
はなどや愚なり。呼べばこそ来りたれ
と。仰せられける程に。中将姫はあきれ
つゝ。シテ「我は誰をか呼子鳥。地「たづき
も知らぬ山中に。声立つる事とては。南
無阿弥陀仏の称ならでまた他事もなきも
のをと。答へさせ給ひしに。それこそ我が
名なれ声をしるべに来れりと。宣へば姫
君もさては此願成就して。生身の弥陀
如来。実に来迎の時節よと。感涙肝に銘
じつゝ。綺羅衣の御袖も。しをるばかり
に見え給ふ。
ロンギ地「実にや貴き物語。即ち弥陀の教ぞ。
<P 613b>
と。思ふにつけてありがたや。シテツレ二人「今
宵しも。二月中の五日にて。しかも時正の
時節なり。法事をなさん為今此寺に来り
たり。地「法事のために来るとは。そもや如
何なる御事ぞ。シテツレ二人「今は何をか包むべ
き。其古の化尼化女の。地「夢中に現じ来れ
りと。シテツレ二人「言ひもあへねば。地「光さし
て。花降り異香薫じ。音楽の声すなり。恥
かしや旅人よ暇申して帰る山の。二上の
嶽とは二上の。山とこそ人はいへど。真は
此尼が上りし山なる故に。尼上の嶽とは
申すなり老の坂を登り登る雲に乗りて。
上りけり紫雲に乗りて上りけり。中入間「。
ワキ詞「かく有難き御事なれば。重ねて奇特
を拝まんと。三人歌待謡「いひもあへねば不思議
やな。/\。妙音聞え光さし。歌舞の菩
薩の目のあたり。現れ給ふ。不思議さよ
現れ給ふ不思議さよ。
後シテ出端「たゞ今夢中に現れたるは。中将姫の
<P 613c>
精魂なり。我娑婆に在りし時。称讃浄
土経。朝々時々に怠らず。信心誠なりし
故に。微妙安楽の結界の衆となり。本覚
真如の円月に坐せり。然れども。こゝを
去る事遠からずして。法身却来の法味を
なせり。地「ありがたや。尽虚空界の荘厳
は。眼は雲路にかゝやき。シテ「転妙法輪
の音声は。聴宝刹の耳に充てり。地「蕭然
とある暁の心。シテ「真に涼しき。道に引
かるゝ光陰の心。地「惜むべしやな/\。
時は人をも。待たざるものを。すなはち
こゝぞ。唯心の浄土経。いたゞきまつれ
や/\。摂取不捨。シテ「為一切世間。説
此難信。地「之法。是為。甚難。シテ「実に
も此法甚だしければ。地「信ずる事も難か
るべしとや。シテ「唯頼め。地「頼めや頼め。
シテ「慈悲加祐。地「令心不乱。シテ「乱るな
よ。地「乱るなよ。シテ「十声も。地「一声ぞ
有難や。早舞「。
<P 614a>
シテ「後夜の鐘の音。地「後夜の鐘の音。鳧
鐘の響。称名の妙音の。見仏聞法の色
色の法事。実にも普ねき光明遍照十方
<P 614b>
の衆生を。唯西方に。迎へ行く。御法の舟
の。水馴棹。御法の舟の。さを投ぐる間の。
夢の。夜はほの%\とぞなりにける。