<T 住吉詣>
<N 92>
<K 季九月>
<A 子方>随身(能ニテハ二人)
<A 子方>童
<A ツレ>惟光
<A ツレ>源氏の君
<A ツレ>侍女(能ニテハ三人)
<A シテ>明石の上
<A ワキ>住吉神主
<S 名著>
<P 217a>
ワキ詞「これは摂州住吉の神主。菊園の何
某にて候。さても此頃都において誉なら
び無き光源氏。さる宿願の子細あつて。
当社御参詣と仰せ出され候ふ程に。社人
どもを召し出し社内をも清め。其心得を
なすべき由申しつけばやと存じ候。
惟光立衆一声「小車の。轅も続く都路の。直に治
まる時世かな。惟光サシ「抑これは誉世に超
え威光曇らぬ。光源氏にておはします。
さても此君頼をかけし。住吉の神に所願
を満てんと。惟光立衆「けふ思ひ立つ旅衣。薄
き日影も白鳥の。鳥羽の恋塚秋の山。過
ぐればいとゞ都の月の。面影隔つる山崎
や。関戸の宿も移り来ぬ。下歌「払はぬ塵
<P 217b>
の芥川。猪名の笹原分け過ぎて。上歌「見
渡せば。薄霧まがふそなたより。/\。
ほの見えそむる村紅葉。これや交野に狩
り暮れて春見し花のそれならん。猶行先
は渡辺や。大江の岸による波も。音立ち
変へて住吉の。浦曲になるも程ぞな
き。/\。
源氏サシ「聞きしに超えていよ/\ありがた
き。神の誓も潔き。浦曲の浪の瑞籬の。
久しき御代を守り給へ。地上歌「日の本の。
神の誓はおしなべて。/\。和光同塵は。
結縁の御始。八相成道は利物のはてしな
きまで国富み。民を憐む御心を誰かは仰
がざるべき/\。
<P 217c>
ワキ詞「唯今の御参詣めでたう候。惟光「さ
あらば祝詞を参らせられ候へ。ワキ「いで
いで祝詞を申さんと。神主御幣を捧げつ
つ。すでに祝詞を申しけり。謹上再拝。
敬つて白す神慮をすゞしめの神楽。八人
の八乙女。五人の神楽をのこ。颯々の鈴
の音。丁々の鼓の声々に。諷ふ榊葉の神
歌。幾久方の天地開闢。泰平諸人快楽。
福寿円満に守らしめ給へや。抑立つる所
の。諸願成就皆令満足。有難や。地上歌「来
し方の。御願に猶もうち添へて。/\。さ
もありがたき神慮の。納受もかくやと感
涙肝に銘じけり。いよ/\悦の御盃。
神主に賜びければ。をりふし御供に河原
の。大臣の御例とて。内より賜はれる。童
随身其時に。お酌に立ちて慰の。今様
朗詠す。
随身「一樹の蔭や一河の水。地「皆これ他生
の縁といふ。白拍子をぞ奏でける。掛リ中ノ舞。
<P 218a>
随身「われ見ても。久しくなりぬ。すみよ
しの。地「岸の姫松幾代経ぬらん。地上歌「千
代万代の舞の袂。/\。いよ/\廻る盃
の。有明になる沖つ舟の。ほの%\明く
る住吉の。浦より遠の淡路島。あはれは
てなきながめかな/\。
シテ、ツレ三人一声「明石潟。月待つ方に行く舟の。波
しづかなる浦伝ひ。上歌「舟出せし。後の山
の山颪。/\。関吹き越えて行く程に。
須磨の浦わもいつしかに跡の名残もおし
てるや。難波入江に寄するな
る。波はさながら白雪の。津
守の浦に着きにけり/\。
ツレ女「松原の深緑なる木蔭よ
り。花紅葉を散らせる如くな
る。色の衣々数々に。のゝし
りて詣づる人影は。いかなる
人にてあるやらん。惟光「これ
は都に光君。過ぎにし須磨の
<P 218b>
御願はたしに。詣で給ふといさ知らぬ。人
もありける不思議さよ。シテ「あら恥かし
や光君と。聞くより胸うち騒ぎつゝ。い
とゞ心も上の空の。惟光「月日こそあれけ
ふこの頃。詣で来んとは。シテ「白露の。
地上歌「玉襷。かけも離れぬ宿世とは。
/\。思ひながらもなか/\に。此あり
さまをよその見る目も恥かしや。さりと
ては浦浪の。帰らば中空に。ならんも憂
しやよしさらば。難波の潟に舟とめて。
<P 218c>
祓だに白波の。入江に舟をさし寄する。
ロンギ「不思議やな。ありし明石の浦浪の。
立ちも帰らぬ面影の。それかあらぬか舟
かげの。信夫もじずり誰やらん。シテ「誰
ぞとは。よそに調の中の緒の。其音違は
ず逢ひ見んの。頼めを早く住吉の。岸に
生ふてふ草ならん。源氏「忘草。々々。生
ふとだに聞く物ならば。其かね言もあら
じかし。地「実になほざりに頼めおく。そ
の一言も今ははや。源氏「ありし契の縁あ
らば。地「やがての逢瀬も程あらじの。心
は互に。変らぬ影も盃の。度重なれば惟
光も。惟光「傅御酌をとり%\の。地「酔に
引かるゝ戯の舞。面はゆながらもうつ
りまひ。中ノ舞(序ノ舞ニモ)。
シテ「身をづくし。恋ふるしるしにこゝま
でも。地「めぐり逢ひける。縁は深しな。
シテ「数ならで。難波の事もかひなきに。
何みをづくし思ひ初めけん。互の心を夕
<P 219a>
汐満ちきて。地「入江の田鶴も
声をしまぬほど。哀なるをり
から。人目もつゝまず逢ひ見
まほしくは。思へども。はや
漕ぎ離れて。行く袖の露けさ
も。昔に似たる旅衣。田蓑の
島も。遠ざかるまゝに。名残
もうしの車にめされて。のぼ
れば下るや稲舟の。舟影もほ
の%\と明石の浦曲の舟をし思ひの。
<P 219b>
別かな。