<T 玄象>
<N 245>
<K 季八月>
<A ツレ>藤原師長
<A 前ツレ>老女
<A シテ>村上天皇(前は老翁)
<A ワキ>師長従者
<A 後ツレ>龍神
<A ワキツレ>同
<S 名著>
 
<P 605b>
ワキ、ワキツレ次第「八重の潮路を行く舟の。/\唐土{もろこし}
は何くなるらん。師長詞「そも/\これは太
政大臣師長とは我が事なり。ワキ詞「偖もこ
の君と申すは。天下に隠れなき琵琶の御
上手にて御座候ふが。入唐の御望ましま
すにより。此度思し召し立ち道すがら名
 
<P 605c>
所の月をも御覧ぜん為に。唯今津の国須
磨の浦に御下向にて候。師長サシ「われはさて
いつの夕を都の空。まだ夜深きに旅立ち
て。末に見えたる山崎も。過ぐれば跡に
はやなりて。ワキ歌「波越す袖の湊川。/\。
まだ知らぬ。方にも我は生田の漏り来る
 
<P 606a>
月は木の間にて。心尽しの旅の道。され
どもこれは唐土の。門出と思へば勇あ
る。・高麗{こま}の林をよそに見て。須磨の浦に
も着きにけり/\。ワキ詞「御急ぎ候ふ程
に。これははや津の国須磨の浦に御着に
て候。暫く此処に御休あり。事の由をも
御尋あらうずるにて候。シテツレ二人一声「持ちかかぬ
る。汐汲む桶の苦しきに。 また力づく老
の杖。ツレ二ノ句「拙き業を須磨の浦。二人「眺に
憂きや忘るらん。シテサシ「面白やうらに・入日{いりひ}
は海上に浮み。須磨や明石の浦の様。塩焼
く・海士{あま}の心にも。さも面白う候ふなり。
ツレ「南を遥に眺むれば。雲に続ける紀の
・路{ぢ}の小島。シテ「由良の戸渡る早船も。汐
追風の吹上や。ツレ「遠浦ながら・住吉{すみよし}の。
松こそ見ゆれ海越しに。シテ「・富島{とじま}の磯や
・昆陽{こや}・難波{なには}。ツレ「名には絵島と云ひながら。
シテ「いかで筆にも及ぶべき。二人「あら面
白の浦の気色や。地下歌「げにや面白き。海
 
<P 606b>
土の磯屋とは淡路潟。あは沖舟の漕ぎ来
るは。雨ごさめれいま一・返{かへり}も。汐汲めや
人々。上歌「そよや・陸奧{みちのく}の。/\。千賀の
塩竈は。名のみにて遠ければ。いかゞ運
ばん伊勢島や。阿漕が浦の汐をば度重ね
ても汲み難し。田子の浦の汐をばいざ下
りたゝんわくらはに。訪ふ人あらば。佗ぶ
と答へて。此須磨の浦の汐汲まん。/\。
シテ詞「塩屋に帰り休まうずるにて候。
ワキ「塩屋の・主{あるじ}の帰りて候。御宿を借らば
やと存じ候。いかにこれなるは塩屋の主
にてあるか。シテ「さん候。塩屋の主にて
候。ワキ「是に御座候ふは太政大臣師長公
と申して。天下に隠れましまさぬ琵琶の
御上手にて候ふが。入唐の御望にて此浦
に御下向にて候。一夜の御宿を参らせ候
へ。シテ「いやさやうの人にて御座候はゞ。
・異浦{ことうら}にて御宿を召され候へ。ワキ「あら何
ともなや。難波渡にてこそ異浦なんどと
 
<P 606c>
は申すべけれ。是は須磨の浦にてはなき
か。唯御宿を参らせ候へ。シテ「見苦しく候
へども。さらば御宿を参らせ候ふべし。
ツレ「されば一とせ雨の祈の御時。神泉苑
にして。琵琶の秘曲を遊ばされしかば。
シテ詞「龍神もめでけるにや。さしもの晴天
俄に曇り。・大雨{たいう}降る事・終日{しうじつ}。それよりし
てこの君を。雨の大臣とは申すとかや。
ツレ「かほどやごとなき此君に。・一夜{ひとや}の御
宿を参らせて。シテ「秘曲をも聴聞す{る脱カ}な
らば。二人「例なき思出。地下歌「かの蝉丸は
逢坂や。藁屋にて琵琶を弾き給ふ。今こ
の君は須磨の塩屋露もたまらぬ軒の板
間。逢ひ難き砌に逢ふぞ嬉しかりける。
上歌「里離れ。須磨の家居の習とて。/\。
何事を松の柱や竹あめる垣は一重にて。
風もたまらじ痛はしや海は少し遠けれど
も。波たゞこゝもとに聞えきていつのま
に。夢をも御覧候ふべき。よし/\それも
 
<P 607a>
御琵琶を。寝られぬまゝに遊ばせや。 わ
れらも聴聞申すべし我も聴聞申さん。
ワキ詞「いかに申し上げ候。夜もすがら御琵
琶を遊ばされ候へ。師長「此須磨の巻の春
かとよ。源氏此浦に流され給ひ。初めて
世の味の辛きを知るといへども。 まだ
汐じまぬ旅衣。泣くばかりなる涙の露の。
玉の緒琴を弾き鳴し。恋ひ佗ぴて泣く
・音{ね}に紛ふ浦波は。思ふ方より。風や吹く
らん。地「それは浦波の。・音{おと}通ふらし琴の
・音{ね}の。/\。これは弾く琵琶の。をりか
らなれや村雨の。ふる屋の軒の板庇。目
覚すほどの夜雨や管絃の障なるらん。
シテ詞「や。何とて御琵琶をば遊ばし止めら
れて候ふぞ。ワキ詞「さん候村雨の降り候ふ
程に。さて遊ばし止められて候。シテ「げに
村雨の降り候ふぞや。いかに姥。苫取り出
し候へ。ツレ「それは何の為にて候やらん。
シテ「苫にて板屋を葺き渡し。靜かに聴聞
 
<P 607b>
申さんと。シテツレ二人「祖父と姥は諸共に。
ツレ「苫取出し。シテ「さつと葺き。地「塩竈
の名の。近々と寄り居つゝ。耳をそばだ
て聞き居たり。
ワキ詞「如何に主。かほど漏らざる板屋の上
を。何しに苫にて葺きてあるぞ。シテ「さ
ん候唯今遊ばされ候ふ琵琶の御調子は
・黄鐘{わうしき}。板屋を敲く雨の音は・盤渉{ばんしき}にて候ふ程
に。苫にて板屋を葺き隠し。今こそ一調
子になりて候へ。
ロンギ地「さればこそ始より。・常人{たゞびと}ならず思
ひしに。心にくしや琵琶琴を。いかでか弾
かであるべき。シテツレ二人「処から江のほとり
岩越す波の弾きやせん。琵琶琴の。思も
よらぬ御諚なり。地「思よらずも琴の音
の。押してお琵琶を給はりて。シテ「おほ
ぢは琵琶を調ぶれば。ツレ「姥は・琴柱{ことぢ}を立
て並べて。地「撥音爪音。ばらりからりか
らりばらりと。感涙もこぼれえいじも躍
 
<P 607c>
るばかりなりや弾いたり/\面白や。
師長「師長思ふやう。地「われ日の本にて。
琵琶の奥義を極めつゝ。大国を窺はんと。
思ひし事の浅ましさよや。まのあたりか
かる堪能ありける事よ。 所詮渡唐を止ま
らんと。忍びて塩屋を出で給へば。それ
をも知らで琵琶琴の心一つのたしなみに
て。越天楽の・唱歌{しやうが}の声。梅が・枝{えだ}にこそ
鴬は巣をくへ。風吹かばいかにせん花
に宿る鴬。・宿人{やどりうど}の帰るをも知らで弾いた
り琵琶琴。
ツレ詞「なう旅人の御立ち候。シテ「何旅人の
御立ち候ふとや。何とて留め申さぬぞと。
シテツレ二人「おほぢと姥は走りより。地「琵琶琴
よりも御袖を唯引けや/\横雲の。 夜は
まだ深し浦の名のあかしてお立ち候へ。
師長ロンギ「何しに留め給ふらん。まづ此度は帰
洛して。重ねて尋ね申すべし。御名を名の
り給へや。シテツレ二人「今は何をか包むべき
 
<P 608a>
我絃上の・主{ぬし}たりし。村上の天皇梨壷の女
御夫婦なり。地「御身の入唐止めん為。夢
中にまみえ須磨の浦。故院の昔の夢の告
思ひ出でよ人々とて掻き消すやうに失せ
給ふ掻き消すやうに失せ給ふ。来序中入
後シテ出端「抑これは。延喜聖代の御譲。村上の
天皇とは我が事なり。その聖代の御宇か
とよ。唐土より三面の琵琶を渡さるゝ。
絃上青山獅子丸これなり。さる程に獅子
は龍宮へ取られしを。いで召しいだし弾
かせんと。漫々たる海上に向ひ。いかに
下界の龍神たしかに聞け。獅子丸持参つ
かまつれ。急早鼓
地「獅子丸浮ぶと見えしかば。/\。八大
龍馬を引き連れ引き連れかの御琵琶を授
け給へば。師長賜はり弾きならし。八大龍
王も絃管の役々或は波の。鼓を打てば。
或は琵琶の名にし負ふ。・獅子団乱旋{ししとらでん}に村
上の天皇も。奏で給ふ面白かりける秘曲
 
<P 608b>
かな。早舞
シテ「獅子には文殊や召さるらん。地「獅子
には文殊や召さるらん。帝は・飛行{ひぎやう}の車に
 
<P 608c>
乗じ。八大龍馬に引かれ給へば。師長も
飛馬に鞭を打ち。馬上に琵琶を携へて。
/\。須磨の帰洛ぞ。ありがたき。