<T 芭蕉>
<N 66>
<K 季八月>
<A ワキ>僧
<A シテ>里の女
<A 後シテ>芭蕉の精
<S 名著>
<P 158a>
ワキ詞「これは唐土楚国の傍。小水と申す
所に山居する僧にて候。さても我法華持
経の身なれば。日夜朝暮彼の御経を読み
奉り候。殊更今は秋の半。月の夕すがら
怠る事なし。こゝに不思議なる事の候。
この山中に我ならで。又住む人もなく候
に。夜な/\読経の折節。庵室のあた
りに人の音なひ聞え候。今夜も来りて候
はゞ。如何なる者ぞと名を尋ねばやとお
もひ候。サシ「既に夕陽西にうつり。山峡
の陰冷ましくして。鳥の声幽に物凄き。
歌「夕の空もほの%\と。/\。月にな
り行く山陰の。寂莫とある柴の戸に。此
御経を。読誦する此御経を読誦する。
シテ次第「芭蕉に落ちて松の声。/\。あだ
にや風の破るらん。サシ「風破窓を射て
灯きえ易く。月疎屋を穿ちて夢なり難
き。秋の夜すがら所から。物すさましき
山陰に。住むとも誰か白露の。ふり行く
<P 158b>
末ぞ哀なる。下歌「あはれ馴るゝも山賊の
友こそ。岩木なりけれ。上歌「見ぬ色の。
深きや法の花心。/\。染めずはいかゞ
徒に。其唐衣の
錦にも衣の珠はよ
も掛けじ。草の袂
も露涙移るも過ぐ
る年月は。廻り廻
れどうたかたの哀
れ昔の秋もなしあ
はれ昔の秋もなし。
ワキ詞「さても我読
誦の声怠らず。夢
現とも分からざる
に。女人の月に見
え給ふは。如何な
る人にてましますぞ。シテ「これは此あた
りに住む者なるが。さも逢ひ難き御法を
得。花を捧げ礼をなし。結縁をなすばか
<P 158c>
りなり。とても姿を見え参らすれば。何
をか今は憚の。言の葉草の庵の内を。
露の間なりと法の為は。結縁に貸させ給
へよと。ワキ詞「実に/\法の結縁は。誠に
妙なる御事なれどもさりながら。なべて
ならざる女人の御身に。いかで御宿を参
<P 159a>
らすべき。シテ詞「其御心得はさる事なれど
も。よそ人ならず我もまた。住家はこゝ
ぞ小水の。ワキ「同じ流を汲むとだに。
知らぬ他生の縁による。シテ「一樹の陰の。
ワキ「庵の内は。地歌「惜まじな。月も仮寝
の宿。/\。軒も垣ほも古寺の。愁は。崖寺
のふるに破れ。魂は山行の。深きに痛
ましむ月の影も凄ましや。誰かいひし。
蘭省の花の時。錦帳の下とは。廬山の雨
の夜草庵の中ぞ思はるゝ。
ワキ詞「余りに御志深ければ。御経読誦
の程内へ御入り候へ。シテ「さらば内へ参
り候ふべし。あら有難や此御経を聴聞
申せば。我等如きの女人。非情草木の類
までも頼もしうこそ候へ。ワキ「実によく
御聴聞候ふものかな。たゞ一念随喜の信
心なれば。一切の非情草木の類までも。
何の疑の候ふべき。シテ「さては殊更有
難や。さて/\草木成仏の。謂晴をなほも
<P 159b>
示し給へ。ワキ「薬草喩品現れて。草木国
土有情非情も。皆これ諸法実相の。シテ「峰
の嵐や。ワキ「谷の水音。二人「仏事をなす
や寺井の底の。心も澄めるをりからに。
地歌「灯を背けて向ふ月の下。/\。共
に憐む深き夜の。心を知るも法の人の。教
のまゝなる心こそ。思の家ながら。火宅
を出づる道なれや。されば柳は緑。花
は紅と知る事も。唯其まゝの色香の草木
も。成仏の国土ぞ成仏の国土なるべし。
ロンギ地「不思議やさても愚なる。女人と
見るにかくばかり。法の理白糸の解く
ばかりなる心かな。シテ「なか/\に。何
疑か有明の。末に闇路をはるけずは。
今逢ひ難き法を得る身とはいかゞ思は
ん。地「実に逢ひ難き法に逢ひ。受け難き
身の人界を。シテ「受くる身ぞとやおほす
らん。地「恥かしや帰るさの。道さやかに
も照る月の。影はさながら庭の面の雪の
<P 159c>
中の芭蕉の。いつはれる姿の真を見えば
如何ならんと。思へば鐘の声。諸行無常
となりにけり/\。中入間「。
ワキ詞「さては雪の中の芭蕉の。偽れる姿
と聞こえしは。疑もなき芭蕉の女と。現
れけるこそ不思議なれ。歌待謡「たゞこれ法
の奇特ぞと。/\。思へばいとゞ夜もす
がら。月も妙なる法の場。風の芭蕉や。
つたふらん風の芭蕉や伝ふらん。
後シテ一声「あら物すごの庭の面やな。/\。
有難や妙なる法の教には。逢ふ事まれな
る優曇華の。花待ち得たる芭蕉葉の。御
法の雨も豊かなる。露の恵を受くる身の。
人衣の姿。御覧ぜよ。かばかりは。うつ
り来ぬれど花もなき。地「芭蕉の露の。旧
りまさる。シテ「庭のもせ山陰のみぞ。
ワキ「寝られねば枕ともなき松が根の。
現れ出づる姿を見れば。ありつる女人の
顔ばせなり。さもあれ御身はいかなる人
<P 160a>
ぞ。シテ詞「いや人とは恥かしや。誠は我は
非情の精。芭蕉の女と現れたり。ワキ「そ
もや芭蕉の女ぞとは。何の縁にかか
かる女体の。身をば受けさせ給ふらん。
シテ詞「その御不審は御あやまり。何か定は
荒金の。ワキ「土も草木も天より下る。
シテ「雨露の恵を受けながら。ワキ「我とは
知らぬ有情非情も。シテ「おのづからなる
姿となりて。ワキ「さも愚かなる。シテ「女
とて。地歌「さなきだに。あだなるに芭蕉
の。女の衣は薄色の。花染ならぬに袖の。
ほころびも恥かしや。
地クリ「それ非情草木といつぱ誠は無相真
如の体。一塵法界の心地の上に。雨露霜
雪の形を見ず。サシシテ「然るに一枝の花を捧
げ。地「御法の色をあらはすや。一花開け
て四万の春。長閑けき空の日影を得て揚
梅桃李数々の。シテ「色香に染める。心ま
で。地「諸法実相。隔もなし。クセ「水に
<P 160b>
近き楼台は。まづ月を得るなり陽に向へ
る花木は又。春に逢ふ事易きなる。其理
も様々の。実に目の前に面白やな。春過
ぎ夏たけ秋来る風の音信は。庭の荻原先
そよぎそよかゝる秋と知らすなり。身は
古寺の軒の草。忍とすれど古も。花
は嵐の音にのみ。芭蕉葉の。もろくも落
つる露の身は。置き所なき虫の音の。蓬
がもとの心の。秋とてもなどか変らん。
シテ「よしや思へば定なき。地「世は芭蕉
葉の夢の中に。牡鹿の鳴く音は聞きなが
ら。驚きあへぬ人心。思ひいるさの山は
あれど。唯月ひとり伴なひ馴ぬる秋の
<P 160c>
風の音。起き臥し茂き小笹原。しのに物
思ひ立ち舞ふ袖。暫しいざやかへさん。
シテ「今宵は月も。白妙の。地「氷の衣。霜
の袴。序ノ舞「。シテワカ「霜の経。露の緯こそ。弱
からし。地「草の。袂も。シテ「久方の。地「久
方の。天つ少女の羽衣なれや。シテ「これ
も芭蕉の羽袖をかへし。地「かへす袂も芭
蕉の扇の。風茫々と物すごき古寺の。庭
の浅茅生。女郎花刈萓。面影うつろふ露
の間に。山おろし松の風。吹き払ひ/\。
花も千草もちり%\。に。花も千草もち
り%\になれば。芭蕉は破れて残りけ
り。