<T 海士>
<N 246>
<K 季二月>
<A 子方>房前大臣
<A ワキ>大臣の従者
<A ワキツレ>同
<A シテ>海士の霊
<A 後シテ>龍女
<S 赤尾>
 
<P 608b>
ワキ、ワキツレ二人次第「出づるぞ・名残{なごり}・三日月{みかづき}の。/\都
の西にいそがん。ワキサシ「・天地{あめつち}のひらけし・恵{めぐみ}
ひさかたの。・天{あま}の・児屋根{こやね}の・御{おん}ゆづり。
子方「・房前{ふさざき}の・大臣{だいじん}とは・我{わ}が事なり。さても
みづからが・御{おん}母は。・讃州{さんしゅう}・志度{しど}の浦。・房崎{ふさざき}と
申す所にて。むなしくなり給ひぬと。承
りて候へば。急ぎ・彼{か}の所に・下{くだ}り。・追善{つゐぜん}を
もなさばやと思ひ候。ワキ、ワキツレ二人下歌「ならはぬ
旅に・奈良坂{ならざか}やかへりみかさの山かくす春
の霞ぞ恨めしき。上歌「・三笠山{みかさやま}今ぞ・栄{さか}えん
・此{この}岸の。/\南の海に急がんと。ゆけば
程なく・津{つ}の国の。こや・日{ひ}の・本{もと}の始なる。
 
<P 608c>
・淡路{あはぢ}のわたり末ちかく。・鳴門{なると}の・沖{おき}に音す
るはとまり定めぬ。・蜑小舟{あまをぶね}。とまり定め
ぬ・蜑小舟{あまをぶね}。ワキ詞「・御{おん}急ぎ候ふ程に。これは
はや讃州志度の浦に・御着{おんつき}にて御座候。又
あれを見れば・男女{なんによ}の・差別{しやべつ}は知らず人・一人{いちにん}
来り候。・彼{か}の者を・御待{おんまち}あつて。此処の・謂{いはれ}
を・委{くは}しく・御尋{おんたづね}あらうずるにて候。
シテ一セイ「・海士{あま}の・刈{か}る。・藻{も}に住む虫にあらねど
も。われから・濡{ぬ}らす。・袂{たもと}かな。これは讃
州・志度{しど}の浦。・寺{てら}近けれども心なき。あま
のゝ里の・海人{かいじん}にて候。げにや名におふ・伊勢{いせ}
をの海士は・夕波{ゆふなみ}の。うちとの山の月を
 
<P 609a>
待ち。・浜荻{はまおぎ}の風に秋を知る。また・須磨{すま}の
あま・人{びと}は・塩木{しほき}にも。・若木{わかき}の桜を折りもち
て。春を忘れぬたよりもあるに。此浦に
ては・慰{なぐさみ}も。名のみあまのゝ原にして。花
の咲く草もなし。何をみるめ刈らうよ。
下歌「刈らでも・運{はこ}ぶ・浜川{はまかは}の。/\。・潮海{しほうみ}か
けて流れ・芦{あし}の。世を渡る・業{わざ}なれば。心な
しともいひがたきあまのゝ里に帰らん。
あまのゝ里に帰らん。
ワキ詞「いかに是なる女。おことは此浦の・海士{あま}
にてあるか。シテ詞「さん・候{ざふらふ}此浦のかづき
の・海士{あま}にて候。ワキ「かづきの・海士{あま}ならば。
あの・水底{みなそこ}のみるめを刈りて参らせ候へ。
シテ「痛はしや旅づかれ。・飢{うゑ}にのぞませ給
ふかや。わが住む里と申すに。かほどい
やしき・田舎{でんじや}のはてに。不思議や雲の・上人{うへびと}
を。みるめ召され候へ。詞「刈るまでもな
し此みるめを召され候へ。ワキ「いや/\
さやうの為にてはなし。あの・水底{みなそこ}の月を
 
<P 609b>
御覧ずるに。みるめ・繁{しげ}りて・障{さはり}となれば。刈
りのけよとの・御諚{ごぢやう}なり。シテ「さては月の
ため刈りのけよとの御諚かや。昔もさる
ためしあり。・明珠{めいしゆ}をこの・沖{おき}にて・龍宮{りうぐう}へ
取られしを。かづきあげしもこの浦の。
地次第「・天{あま}みつ月も・満潮{みちじほ}の。/\。みるめを
いざや刈らうよ。
ワキ詞「しばらく。何と・明珠{めいしゆ}をかづきあげし
も此浦の・海士{あま}にてあると申すか。シテ詞「さ
ん・候{ざふろふ}此浦の海士にて候。またあれなる里
をばあまのゝ里と申して。かのあま・人{びと}の
住み給ひし・在所{ざいしよ}にて候。又これなる島は。
・彼{か}の・珠{たま}を取り上げ始めて見そめしによつ
て。新しき・珠島{たましま}と書いて。・新珠島{しんじゆじま}と申し
候。ワキ「さてその玉の名を何と申しける
ぞ。シテ「・玉中{ぎよくちう}に。・釈迦{しやか}の・像{ざう}まします。いづ
かたより拝み奉れども同じ・面{おもて}なるによつ
て。・面{おもて}を向ふに・背{そむ}かずと書いて。
・面向不背{めんかうふはい}の珠と申し候。ワキ「かほどの宝を何と
 
<P 609c>
てか。・漢朝{かんてう}よりも渡しけるぞ。シテ詞「今の
・大臣{だいじん}・淡海公{たんかいこう}の・御妹{おんいもうと}は。・唐土{もろこし}・高宗皇帝{かうそうくわうてい}の
・后{きさき}に立たせ給ふ。されば・其{その}・御氏寺{おんうぢでら}なれば
とて。・興福寺{こうぶくじ}へ三つの宝を渡さるゝ。・華原磐{くわげんけい}
・泗濱石{しひんせき}。・面向不背{めんこうふはい}の珠。二つの宝は
・京着{きやうちやく}し。・明珠{めいしゆ}はこの沖にて龍宮へ取ら
れしを。・大臣{だいじん}・御{おん}身をやつし此浦に・下{くだ}り給
ひ。いやしきあま・乙女{をとめ}と・契{ちぎり}をこめ。・一人{ひとり}
の・御{おん}子を・設{まう}く。いまの・房前{ふさざき}の・大臣{だいじん}これな
り。子方「やあこれこそ・房前{ふさざき}の大臣よ。あ
らなつかしのあま・人{びと}や。なほ/\語り候
へ。シテ「あら何ともなや。今まではよそ
の事とこそ思ひつるに。さては御身の上
にて候ひけるぞやあら・便{びん}なや・候{ざふらふ}。
子方「みづから大臣の・御{おん}子と生れ。・恵{めぐみ}開け
し・藤{ふぢ}の・門{かど}。されども心にかゝる事は。此
身残りて母知らず。ある時・傍臣{ばうしん}語りて
曰く。忝くも御母は。讃州志度の浦。・房前{ふさざき}
のあまり申せば・恐{おそれ}ありとて言葉をのこ
 
<P 610a>
す。さては・卑{いや}しき・海士{あま}の子。・賎{しづ}の・女{め}の・腹{はら}
に宿りけるぞや。地歌「よしそれとても・帚木{はゝきぎ}
に。/\。しばし宿るも月の光・雨露{うろ}の
恩にあらずやと。思へば尋ね来りたり。
あらなつかしの・海士人{あまびと}やと・御{おん}涙を流し給
へば。シテ「げに心なき・海士衣{あまごろも}。地「さらで
もぬらす・我{わ}が・袖{そで}を。重ねてしほれとやか
たじけなの御事や。かゝる・貴人{きじん}の賎しき
・海士{あま}の・胎内{たいない}に。やどり給ふも・一世{いつせ}ならず。
たとへば・日月{じつげつ}の。・潦{にはたづみ}にうつりて・光陰{くわういん}を
・増{ま}す如くなり。われらも其・海士{あま}の。・子孫{しそん}
と答へ申さんは。事もおろかや我が君の。
ゆかりに似たり紫の。藤咲く・門{かど}の口を閉
ぢて。いはじや・水鳥{みづとり}の・御主{おしう}の名をば・朽{く}た
すまじ。
ワキ詞「とてもの事に・彼{か}の・珠{たま}を。・潜{かづ}きあげし
所を。・御{おん}前にてそと・学{まな}うで・御{おん}目にかけ候へ。
シテ詞「さらばそと学うで・御{おん}目にかけ候ふ
べし。その時あま・人{びと}申すやう。もし・此珠{このたま}を
 
<P 610b>
取り得たらば。此・御{おん}子を・世継{よつぎ}の・御{おん}位にな
し給へと申しゝかば。・子細{しさい}あらじと・領掌{りやうじやう}
し給ふ。扨は我が子ゆゑに捨てん命。露
ほども惜しからじと。・千尋{ちひろ}の・縄{なは}を・腰{こし}につ
け。もし・此珠{このたま}を取り得たらば。此縄を動
かすべし。其時人々力を添へ。引きあげ
給へと約束し。一つの・利剣{りけん}を抜きもつて。
地「かの・海底{かいてい}に飛び・入{い}れば。空は一つに雲
の波。・煙{けぶり}の波を・凌{しの}ぎつゝ。海漫々{かいまん/\}と分け
入りて。・直下{ちよくか}と見れども底もなく。・辺{ほとり}も
知らぬ海底に。そも・神変{じんぺん}はいさ知らず。
取り得ん事は・不定{ふじやう}なり。かくて龍宮にい
たりて・宮中{きうちう}を見れば其高さ。三十丈の・玉塔{ぎよくたふ}
に。かの珠を・籠{こ}めおき・香花{かうげ}を・供{そな}へ・守護神{しゆごじん}
は。・八龍{はちりう}・並{な}み・居{ゐ}たり・其外{そのほか}・悪魚{あくぎよ}・鰐{わに}の口。
逃れ難しや我が命。さすが恩愛の・故郷{ふるさと}の
・方{かた}ぞ恋しき。あの波の・彼方{あなた}にぞ。我が子は
あるらん父・大臣{だいじん}もおはすらん。さるにて
も・此儘{このまゝ}に。別れはてなん悲しさよと涙ぐ
 
<P 610c>
みて立ちしが又思ひ切りて手を合わせ。
・南無{なむ}や・志度寺{しどじ}の・観音薩〓{タ:大漢和05190}の力を合はせて
たび給へとて。・大悲{だいひ}の・利剣{りけん}を・額{ひたひ}に当て・龍宮{りうぐう}
の・中{なか}に飛び入れば。左右へばつとぞ・退{の}
いたりける・其隙{そのひま}に。・宝珠{ほうじゆ}を盗みとつて。
逃げんとすれば。守護神おつかくかねて
たくみし事なれば。持ちたる・剣{つるぎ}を取り直
し。・乳{ち}の下をかき切り珠を押し籠め剣を
捨てゝぞ伏したりける龍宮の・習{ならひ}に・死人{しにん}を
・忌{い}めば。あたりに近づく・悪龍{あくりよう}なし。約束
の縄を動かせば。人々よろこび引きあ
げたりけり珠は知らずあま・人{びと}は・海上{かいしやう}に浮
・び{み}出でたり。
シテ「かくて浮びは出でたれども。悪龍
の・業{わざ}と見えて。・五体{ごたい}もつゞかず・朱{あけ}になりた
り。珠もいたづらになり。・主{ぬし}も・空{むな}しくな
りけるよと。大臣なげき給ふ。其時・息{いき}の
下より申すやう。・我{わ}が・乳{ち}のあたりを御覧
ぜとあり。げにも・剣{つるぎ}のあたりたる・痕{あと}あり。
 
<P 611a>
その・中{なか}より・光明{くわうみやう}・赫奕{かくやく}たる珠を取りいだ
す。さてこそ・御{おん}身も約束のごとく。此浦
の名に寄せて。・房前{ふさざき}の大臣とは申せ。今
は何をかつゝむべき。これこそ・御{おん}身の母
あま・人{びと}の・幽霊{いうれい}よ。地「この筆の・跡{あと}を御覧じ
て。・不審{ふしん}をなさで・弔{とぶら}へや。今は帰らん
あだ波の。・夜{よる}こそ・契{ちぎ}れ・夢人{ゆめびと}の。・明{あ}けて・悔{くや}
しき・浦島{うらしま}が。・親子{おやこ}のちぎり・朝潮{あさじほ}の波の
底にしづみけり立つ波の・下{した}に・入{い}りにけ
り。中入間「。
ワキ詞「いかに申し上げ候。あまりに不思議
なる・御{おん}事にて候ふほどに。・御手跡{ごしゆせき}を・披{ひら}い
て御覧ぜられうずるにて候。子方「さては
・亡母{ぼうぼ}の手跡かと。ひらきて見れば・魂{たましひ}
・黄壌{くわうしやう}に去つて・一{いち}十三年。・骸{かばね}を・白沙{はくさ}に・埋{うづ}
んで・日月{じつげつ}の・算{さん}を・経{ふ}。・冥路{めいろ}・昏々{こん/\}たり。我を
・弔{とぶら}ふ人なし。君孝行たらばわが・冥闇{めいあん}をた
すけよ。げにそれよりは十三年。地「さて
は疑ふ所なし。いざ・弔{とぶら}はんこの寺の。志
 
<P 611b>
ある・手向草{たむけぐさ}。花の・蓮{はちす}の・妙経{めうぎやう}色々の・善{ぜん}をな
し給ふ色々の善をなし給ふ。出端「。
地「・寂冥無人声{じやくまくむじんじやう}。後シテ「あらありがたの・御弔{おんとぶらひ}
やな。・此{この}・御経{おんきやう}にひかれて。・五逆{ごぎやく}の・達多{だつた}
は・天王記別{てんわうきべつ}を・蒙{かうぶ}り。・八歳{はつさい}の・龍女{りうによ}は
・南方無垢世界{なんぱうむくせかい}に・生{しやう}を受くる。なほ/\・転読{てんどく}し
給ふべし。地「・深達罪福相{じんだつざいふくさう}。・偏照於十方{へんせうおじつほう}。
シテ「・微妙浄法身{みめうじやうほつしん}。・具相{ぐそう}三十二。地「・以八十種好{いはちじつしゆかう}
 
 
<P 611c>
シテ「・用荘厳法身{ゆうしやうごんほつしん}。地「・天人所載仰{てんにんしよたいがう}。
・龍神咸恭敬{りうじんげんくきやう}あらありがたの・御{おん}経やな。早舞「。
シテ「今此経の・徳用{とくゆう}にて。地「今この経の徳用
にて。・天龍八部{てんりうはちぶ}。・人与非人{にんよひにん}。・皆遥見彼{かいえうけんぴ}。
・龍女成仏{りうによじやうぶつ}さてこそ讃州・志度寺{しどじ}と・号{がう}し。・毎年{まいねん}
・八講{はつかう}。・朝暮{てうぼ}の・勤行{ごんぎやう}。・仏法{ぶつほふ・繁昌{はんじやう}の霊地と
なるも。この・孝養{けうやう}と。承る。