安達原(観世流以外にては黒塚といふ)
<N 236>
<K 季八月>
<A ワキ>東光坊祐慶
<A ワキツレ二人>同行山伏
<A シテ>老女
<A 後シテ>鬼女
<S 名著>
 
<P 583b>
ワキ、ワキツレ二人 次第「旅の衣は篠懸の。/\。露けき
 
<P 583c>
袖やしほるらん。ワキサシ「これ那智の東光坊
 
<P 584a>
の阿闍梨。祐慶とは我が事なり。ワキツレ二人「夫
れ捨身抖〓{JIS X 0212-1990 区点:3319 大漢和:12912。ソウ}の行体は。山伏修行の便なり。
ワキ「熊野の順礼廻国は。皆釈門の習な
り。三人「然るに祐慶此間。心に立つる願
あつて。廻国行脚に赴かんと。歌「我が本
山を立ち出でて。/\。分け行く末は紀の
路がた塩崎の浦をさし過ぎて。錦の浜の。
をり/\は。なほしほりゆく旅衣。日も
重れば程もなく。名にのみ聞きし陸奥の。
安達が原に着きにけり/\。ワキ詞「急ぎ候
ふ程に。これははや陸奥の安達が原に着
きて候。あら笑止や日の暮れて候。この
あたりには人里もなく候。あれに火の光
の見え候ふ程に。立ちより宿を借らばや
と存じ候。
シテサシ「実にわび人の習ほど。悲しきものは
よもあらじ。かゝる憂き世に秋の来て。
朝けの風は身にしめども。胸を休むる事
もなく。昨日も空しく暮れぬれば。まどろ
 
<P 584b>
む夜半ぞ命なる。あら定めなの生涯やな。
ワキ詞「いかにこの屋の内へ案内申し候。
シテ詞「そも如何なる人ぞ。ワキツレ「いかにや主
聞き給へ。我等始めて陸奥の。安達が原
に行き暮れて。宿を借るべき便もなし。
願はくは我等を憐みて。一夜の宿をかし
給へ。シテ「人里遠き此野辺の。松風はげ
しく吹きあれて。月影たまらぬ閨の内に
は。いかでか留め申すべき。ワキ「よしや
旅寐の草枕。今宵ばかりの仮寐せん。た
だ/\宿をかし給へ。シテ「我だにも憂き
此庵に。ワキ「たゞ泊らんと柴の戸を。
シテ「さすが思へば痛はしさに。地歌「さら
ばとゞまり給へとて。樞を開き立ち出づ
る。異草も交る茅莚。うたてや今宵敷き
なまし。強ひても宿をかり衣。かたしく
袖の露ふかき。草の庵のせはしなき。旅
寐の床ぞ物うき/\。
ワキ詞「今宵の御宿かへす%\も有難うこ
 
<P 584c>
そ候へ。またあれなる物は見馴れ申さぬ
物にて候。これは何と申したる物にて候
ふぞ。シテ詞「さん候。これはわくかせわ
とて。いやしき賎の女のいとなむ業にて
候。ワキ「あらおもしろや。さらば夜もす
がら営うでお見せ候へ。シテ「実に愧か
しや旅人の。見る目も恥ぢずいつとな
き。賎が業こそものうけれ。ワキ「今宵と
どまる此宿の。主の情深き夜の。シテ「月
もさし入る。ワキ「閨の内に。地次第「真麻苧
の絲を繰返し。/\昔を今になさばや。
シテ「賎が績苧の夜までも。地「世わたる業
こそものうけれ。シテ「あさましや人界に
生を受けながら。かゝる憂き世に明け暮
らし。身を苦しむる悲しさよ。ワキサシ「はかな
の人の言の葉や。まづ生身を助けてこそ。
仏身を願ふ便もあれ。地「かゝる憂き世に
ながらへて。明暮ひまなき身なりとも。心
だに誠の道にかなひなば。祈らずとても
 
<P 585a>
終になど。仏果の縁とならざらん。クセ「唯
これ地水火風の仮にしばらくも纏りて。
生死に輪廻し五道六道にめぐる事唯一心
の迷なり。凡そ人間の。あだなる事を案
ずるに人更に若きことなし終には老とな
るものを。かほどはかなき夢の世をなど
や厭はざる我ながら。あだなる心こそ恨
みてもかひなかりけれ。
ロンギ地「扨そも五条あたりにて夕顔の宿
を尋ねしは。シテ「日陰の糸の冠着し。それ
は名高き人やらん。地「賀茂のみあれにか
ざりしは。シテ「糸毛の車とこそ聞け。地「糸
桜。色もさかりに咲く頃は。シテ「くる人
多き春の暮。地「穂に出づる秋の糸薄。
シテ「月に夜をや待ちぬらん。地「今はた賎
が繰る糸の。シテ「長き命のつれなさを。
地「長き命のつれなさを思ひ明石の浦千
鳥音をのみひとり泣き明かす音をのみひ
とり鳴き明かす。
 
<P 585b>
シテ詞「如何に客僧達に申し候。ツレ詞「承り
候。シテ「あまりに夜寒に候ふ程に。上の
山に上り木を取りて。焚火をしてあて申
さうずるにて候。暫く御待ち候へ。ワキ「御
志ありがたうこそ候、さらば待ち申さ
うずるにて候。やがて御帰り候へ。シテ「さ
らばやがて帰り候ふべし。や。いかに申
し候。妾が帰らんまで此閨の内ばし御覧
じ候ふな。ワキ「心得申し候。見申す事は
有るまじ<候。御心安く思し召され候へ。
シテ「あらうれしや候。かまへて御覧じ候
ふな。此方の客僧も御覧じ候ふな。ワキツレ「心
得申し候。中入間「。
ワキ「ふしぎや主の閨の内を。物の隙より
よく見れば。膿血忽ち融滌し。臭穢は満
ちて膨脹し。膚膩こと%\く爛壊せり。
人の死骸は数しらず。軒とひとしく積み
置きたり。いかさまこれは音に聞<。安
達が原の黒塚に。籠れる鬼の住所なり。
 
<P 585c>
ワキツレ二人「恐ろしやかゝる憂き目をみちの
くの。安達が原の黒塚に。鬼こもれりと詠
じけん。歌の心もかくやらんと。三人歌「心
も惑ひ肝を消し。/\。行くべき方は知ら
ねども。足に任せてにげて行く/\。
出端又ハ早笛後シテ「如何にあれなる客僧。詞とまれ
とこそ。さしもかくしゝ閨の内を。あさま
になされ参らせし。恨申しに来りたり。
胸を焦がす炎。咸陽宮の煙。紛々たり。
地「野風山風吹き落ちて。シテ「鳴神稲妻天
地に満ちて。地「室かき曇る雨の夜の。
シテ「鬼一口に食はんとて。地「歩みよる足
音。シテ「ふりあぐる鉄杖のいきほひ。
地「あたりを払って恐ろしや。イノリ ワキ「東
方に降三世明王。ツレ「南方の軍荼利夜叉
明王。ワキ「西方に大威徳明王。ツレ「北方に
金剛夜叉明王。ワキ「中央に大日大聖不動
明王。三人「〓{JIS X 0212-1990 区点:2149 大漢和:03770。アン}呼〓{JIS X 0212-1990 区点:2257 大漢和:04502。}々々旋荼利摩登枳。〓{JIS X 0212-1990 区点:2149 大漢和:03770。アン}
阿毘羅吽欠娑婆呵。吽多羅〓{JIS X 0212-1990 なし 文字鏡:01-5312 大漢和:03302。タ。咤}干〓{JIS X 0212-1990 なし 文字鏡:09-6232 大漢和:49288。バン}。地「見
 
<P 586a>
我身者。発菩提心。見我身者。発菩提心。
聞我名者。断悪修善。聴我説者。得大智
恵。知我心者。即身成仏。即身成仏と明
王の。繋縛にかけて。責めかけ/\。祈
り伏せにけりさて懲りよ。
シテ「今まではさしも実に。地「今まではさ
しも実に。怒をなしつる。鬼女なるが。
忽ちによわりはてゝ。天地に身をつゞめ
 
<P 586b>
眼くらみて。足もとは。よろ/\と。たゞ
よひめぐる。安達が原の。黒塚に隠れ住
みしもあさまになりぬ。あさましや愧づ
かしの我が姿やと。云ふ聲はなほ。物冷
まじく。云ふ声はなほ冷まじき夜嵐の音
に。立ちまぎれ。失せにけり夜嵐の音に
失せにけり。